ラテンアメリカを読む 書評のコーナー

 

「チェ・ゲバラ伝」 三好徹 原書房

ラテンアメリカの不朽の英雄、エルネスト・チェ・ゲバラの生涯を追ったルポである。

エルネスト・チェ・ゲバラが何者であるか、このページの読者には説明の必要もあるまい・・・・・・、というわけにも行かないと思うので、一応説明すると、アルゼンチン生まれの革命家である。
中産階級の家の出で、高校時代、学生時代、そして卒業後と数度に渡り、アルゼンチン全土、そしてラテンアメリカ全土の無銭旅行(何しろあの広大なアルゼンチンを自転車で放浪したというのだからすごい)に出る。最後のラテンアメリカ放浪の旅の目的地は、共に旅した友人がベネズエラでハンセン氏病の療養所で働いており、そのもとでいっしょに働くためだった(ゲバラは医学生だった)。しかし、目的地を目前にしたエクアドルで、彼は現地で゜知り合った知人に革命政権下のグァテマラに行くことを薦められ、ベネズエラ行きを後回しにする。
ここが運命の分かれ道だった。グアテマラで革命政府がCIAに指揮される反革命軍に倒されるのを目撃、メキシコに逃亡、そこでキューバで独裁者バチスタ大統領に対する反乱に失敗して亡命していたフィデル・カストロ、ラウル・カストロらに出会う。彼らは意気投合して、ゲバラはカストロ兄弟の革命軍に参加、1956年11月、僅か80名足らずの同志と共にボロヨットに乗ってキューバ上陸作戦敢行という暴挙を敢行した。案の定、待ち構えていたキューバ政府軍の攻撃を受け、革命軍は散り散りに、生き残ったのは僅か十数名。しかし、そこから奇跡の大逆転により、僅か2年後の1959年1月1日バチスタ政権は倒れ、キューバ革命が成功する。

フィデル・カストロは首相に就任、そしてアルゼンチン生まれのエルネスト・チェ・ゲバラは、キューバ国籍を得て国立銀行総裁、次いで工業大臣を歴任、しかし1965年、突然「別れの手紙」を残し、新たな戦線で革命に参加するためにキューバを離れ、コンゴへ、次いでボリビアに向かい、ゲリラ戦の指揮をとる。しかし1967年10月8日、CIAの指揮下にあるボリビア政府軍に捕らえられ、翌9日に殺される。遺体はひそかに埋められたが、1997年にキューバとアルゼンチンの合同調査団によって発見され、遺骨はキューバに持ち帰られて国葬に付された。

という経歴の持ち主であるゲバラは、キューバ革命の直後アジアアフリカ諸国を親善使節として歴訪し、その中には日本も含まれていた。
そう、エルネスト・チェ・ゲバラは日本に来ているのだ。(カストロの来日はその36年後の1995年)
そのことは知っていたのですが、日本で具体的に何をしたかはこの本ではじめて知りました。

まずゲバラが会った人々。そうそうたるものだ。
東東京都知事、藤山愛一郎外務大臣、福田赳夫農林大臣、池田隼人通産大臣、大阪商工会議所主催の歓迎パーティーで関西財界の面々。岸首相にも会うつもりだったものの、外遊中のため果たせなかった。余談だけど、トヨタの工場を見学した際彼を案内したのは、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃に、航空攻撃に先立って出撃した5隻の特殊潜航艇の唯一の生存者で、太平洋戦争の捕虜第1号となった酒巻氏だった。

帰国後彼は国立銀行総裁、ついで工業大臣として行政に腕を振るうことになるが、この時点ではつい先日まで南米放浪の旅→革命軍のゲリラ戦士という経歴しかない31歳の若者。が、既に、キューバの主要産品である砂糖の輸出に心を砕き、外務省の牛場経済局長との会談では、「30万トン買い付けの約束をしてくれるならば、15万トン分の代金を円貨で受け取る用意がある。」という提案を独断で行っている。そのような提案を独断で行えるほどの権限を、彼はカストロから委任されていた。

一方、日本側ときたら・・・・・、池田通産大臣との会談は、日本側の都合で突然会場が変更になった上、池田大臣の都合で僅か15分という会談時間、しかも、その会談の記録を引用した上で三好徹氏は書いている。
「両者の対話を読み返してみて、なによりも強く感じられるのは池田のエコノミック・アニマルぶりである。通商協定を結びたいなら、まず日本の繊維製品をうんと買え、というだけだ。同じころフランスを訪問した岸首相について、フランスのドゴール大統領が、日本のセールスマンと評したことが思い起こされる。さらにいえば、池田に限らず日本がわの態度の底に一貫して流れているのは、使節団に対する冷淡さである。15分という会見時間の限定が、おざなりに会ってやるといわんばかりの底意の証拠であろう。(中略)しかし、歴史は厳正な審判者である。いまかれらは共に鬼籍にあるが、その世界史における評価には、はるかな隔たりが生じてしまった。」

そう。池田隼人とエルネスト・チェ・ゲバラ、池田隼人なんて人が名を知られているのは日本の中だけ。世界史の中での位置付けは、チェの足元にも及ばない。それでも、冷淡にされても何でも、革命直後でお金のないキューバとしては、日本との通商関係に期待するしかなかったのだろう。ゲバラと池田隼人、牛場経済局長との会談の結果を元に、翌年日本とキューバの間に通商条約が樹立された。
お金がない、と言えば、この親善使節一行が非常につましい旅行者であった。ゲバラはホテルからかける電話の代金にまで注意を払い、かなりの額のトラベラーズチェックを使い残して帰国した。彼は、それを全額中央銀行で国庫に戻している。ラテンアメリカで、お金に関してこのように、ばかがつくほど正直な人は、極めて珍しい。

さて、ゲバラが日本でもっとも感銘を受けた場所は広島であったそうだ。そして、日本の工業力にも強い印象を受けた、とのこと。
帰国後のゲバラを待ち受けていたのは、米国との関係悪化、CIAに指揮される反革命軍のヒロン湾上陸作戦(米国でピッグス湾事件と呼ばれているもの)、米国による砂糖の買い付け量削減、次いで買い付け停止という制裁、そしてそれに代わるソ連の砂糖買い付け・・・・・・・、ゲバラはその時期のキューバ経済の舵取りの最高責任者だった。

ゲバラは、帰国後日本をモデルに工業化を推し進めようとする。が、それにブレーキをかけたのは、米国の経済制裁と、そしてソ連だった。ソ連は、世界戦略の一環としてキューバを支援したが、キューバが工業国になることなど望んでいなかった。
ゲバラはソ連に対して失望し、こう言っている。

「後進諸国が計り知れない汗と苦しみを費やした原材料を国際市場価格で売り、そして今日のオートメ化した大工場で生産される機械を買うことに、“互恵”という言葉をどうして適用することができるだろうか。もしこの種の関係がふたつの国家の間にできるならば、社会主義国家といえども、見方によっては帝国主義的収奪の共犯者である、といわねばならない。」

ゲバラは、政治家としてもたいへん有能だった。ただ、おそらく政治の世界は性に合わなかったのだろう。カストロは、革命家から政治家に、みごとに転進した。ゲバラは、革命家から政治家に転身し、しかし最後はやはり革命家にもどって生涯を終える。革命、という政治の世界での、生涯の冒険者だったのである。

 

「マゼランが来た」 本多勝一 朝日新聞社

コロンブスのアメリカ到達
五〇〇周年に際して
本書を
アメリカ先住民の
虐殺された何千万の魂に
捧げる

本多勝一「マゼランが来た」は、この巻頭の辞ではじまる、アメリカ大陸先住民への鎮魂歌である。

クリストバル・コロン(英語名クリストファー・コロンブス)がアメリカ大陸に到達(実際は大陸ではなく西インド諸島の一つに到達しただけなのだが)してから508年。アメリカ大陸の先住民にとっては地獄のような500年であった。
かつて幾多の文明、王朝が覇を競ったメキシコ中央高原、ユカタン半島、南米アンデス高原。このうちユカタンのマヤ文明はスペイン人の到来以前に自壊していたが、残る二つ、メキシコ中央高地のアステカ帝国とアンデスのインカ帝国は、ともにスペイン人のやってきたその瞬間、繁栄のただなかにあった。

しかし、スペイン人の到達とともに、先住民文明の繁栄は終わりを告げた。それらの文明を相次いで滅ぼされ、幾多のアメリカ先住民が虐殺されていった。スペイン人の所業については、バルトロメー・デ・ラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」(日本版は岩波文庫と現代企画室より発行、現代企画室版のタイトルは「インディアスの破壊を弾劾する簡略なる陳述」)に詳しい。

ラス・カサスは、植民地時代初期の人だが、彼が糾弾したアメリカ先住民に対する虐殺は、決して征服時代だけの蛮行ではなく、植民地時代だけの蛮行ですらない。アメリカ大陸諸国が独立を成し遂げた後も、今世紀、否現在まで続けられてきた「民族浄化作戦」なのである。中でも西インド諸島と南部パタゴニアでは、地域全体でほとんどの民族が丸ごと滅亡の憂き目を見た。

「マゼランが来た」は、それら蛮行の跡を、マガジャネス(マゼランのスペイン語名)艦隊の世界一周の軌跡に沿って巡ったルポである。思えば、私も子どものころ、マゼランの世界一周航海を何かの読み物で読んだ記憶がある。タイトルも著者も覚えておらず、内容も断片的にしか記憶がないが、世界一周という「偉業」の半ばにして野蛮な原住民に理不尽にも襲われて「非業の死」を遂げたような描き方であった気がする。実際は、アメリカ大陸征服、先住民虐殺という理不尽な「暴挙」の半ばにして「自業自得」の死であったわけである。

本多氏は、本書の中で、南部パタゴニア諸民族の滅亡の過程と現在の姿を特に細かく、各民族ごとに描いている。とりわけ、彼らの言語がどの程度生き残っているかという点にこだわっている。
私は中学生のころ、国語の教科書で氏の「民族と文化」という文を読んだことがある。その中に、北海道のアイヌ(ウタリ)の村で、アイヌの言葉を話す人たちがとうとうたった3人の老人だけになってしまった、という話が載っていた。3人の誰かが死んだら、残った二人がアイヌの伝統に則って葬式をやる、それゆえに「先に死ぬやつは幸せだ」と言い合っていた、とか。読んでいて、胸が詰まるような思いだった。民族性のもっとも基本的で最も重要なものはその民族の言葉である、という本多氏の主張が体感として理解できる話だった。

アメリカ大陸でも同じ事が、より大規模に起きている。現在、先住民諸言語のうち、当分滅亡の恐れがないのはパラグアイのグァラニー語、ペルー・ボリビアのケチュア語とアイマラ語、中米のマヤ語くらいのものであろう。それも、ペルーでは都会に出てきたケチュア族の人たち、とくに子どもの代は決してケチュア語を使おうとしないと聞くから、100年後200年後にどうだかは分かったものではない。現在のペルーではケチュア語はスペイン語と並ぶ歴然たる公用語として認められているのだが、都会で少しでもいい仕事につこうと思えば、スペイン語を話さざるを得ないのである。

その一方で、新天地を求めて「新大陸」に渡ったスペイン人の多くは、実はスペイン本国の中でも特に貧しい南部のアンダルシアの出身か、民族の独立を奪われたバスク人が多かったというこの皮肉。悪名高きフランシスコ・ピサロ、かのインカ帝国を滅ぼした男は、アンダルシアの貧しい貧しい家の出身で、文字も読めなかったという。
本書の主役であるマゼラン艦隊の乗組員自身からして、出発時5隻227人のうちてスペインに帰国したのはたった1隻、生存者はわずか18名であった。彼ら乗組員がどのような階層の出身か、手元に資料がないので分からないが、少なくとも一般船員の大半は豊かさとは程遠い生活をしていただろう。支配するものとされるもの、虐殺するものとされるもの、収奪するものとされるもの、実は紙一重の存在であるのかもしれない。
が、だからと言って、虐殺される側がそれを仕方ないと諦めてよいはずはないし、それを当然のこととして歴史を描いてよいはずもない。虐殺したものが非難を免れたり、まして英雄ともてはやされたりしてよいはずはなおさらない。

本多勝一氏のルポは、マゼランが出会った民族だけを忠実に追っている。しかし、できることなら今度はそれ以外のラテンアメリカ諸民族についてのルポも期待したい。例えば、せっかく南部パタゴニアの諸民族を取り上げたのだから、そのわずかに北のマプチェ(アラウコ)族、かつて強大を誇ったインカ帝国に屈せず、スペイン人侵略者にも屈せず、チリ独立後も政府に屈せず300年間独立を保って戦いつづけた南米最強の民族についても、ぜひ取り上げてもらえれば。

マゼランがフィリピンで、先住民の軍勢を甘く見た挙句に、用意周到に準備を重ねたラプラプ王との戦いに敗れ命を落とす情景は、ほとんど痛快なものすら感じるが、スペイン人が侵略の過程で先住民の反撃を受け、敗北を喫した例はこれ以外にも少なからずある。上記のマプチェ族は何度もスペイン軍を破っているし、アステカを滅ぼしたエルナン・コルテスも一度はアステカの軍勢によって全滅に近い敗北をこうむっている。独立戦争の時期には、メキシコでもアンデスでも、先住民を糾合して植民地政府を敗北の淵まで追いやった指導者、トゥパク・アマル二世ことホセ・ガブリエル・コンドルカンキ(ペルー)とミゲル・イダルゴ神父(メキシコ)が登場した。

(これらの人物については、一部ですが拙文で取り上げているので、興味がありましたらこちらをご覧ください。)

本多氏ご本人の談によると、この本を見て、氏に講演の依頼をしてきた右翼団体があったそうである。この本が出版された1989年当時、勿論本多氏の南京大虐殺やベトナム報道への取り組みや政治的スタンスを知らずに講演を依頼してきたとはとても思えないから、なかなかに懐の深い右翼団体もあったものである(もっとも本多氏は「自分は右翼」と自称しているが)。残念ながら、当時氏はまだ朝日新聞社の社員であったため、政治団体に招かれて講演をすることは断らざるを得なかったそうだが。

ラテンアメリカ先住民の苦しみは、数多く歌になっている。その中から一つを紹介しよう。

ボリビアの鉱夫たちは
みんな働いている。
コカの葉を噛みタバコを吸いながら
いろいろな鉱山の奥底で。

誰も死からは逃れられない
安い給料をもらって死んでいくなんて
なんと悲しい人生だろう。

ああ、鉱夫たち
きみたちは何をしているんだ。
生きるために働かなければならない。
深い坑道の奥で肺を痛めながら。
ああ、鉱夫たち・・・・・・・!

(ボリビア・ポトシ地方の民謡「EL MINERITO(鉱夫)」より)

ポトシ銀山は、スペイン本国に空前の繁栄をもたらした。そのおこぼれで、ポトシの街にも壮大で豪華な教会が林立した。が、銀を掘る鉱夫たち自身に繁栄のおこぼれが回ってきたわけではない。それどころか、繁栄は彼らの血によってあがなわれたのである。
植民地時代、ポトシ周辺では先住民の若者が狩り集められて鉱山での強制労働を強いられた。事故と激しすぎる労働で命を落とすものが多く、それを知る多くの母親が、我が子の手や足を折って、強制労働から逃れさせた、という。
しかもこの歌は現代の歌である。つまり、鉱夫たちの生活ぶりは、現在も植民地時代とそう大きくは変っていないということである。

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